ずっと内地を転々としてきて、北海道に約四半世紀ぶりに戻ってきました。
北海道に戻ってきて、一つ気づいたことがあります。それは北海道愛のある自分でも、認めざるを得ない事象のように感じています。もちろん暴論の可能性も大いにありますが。
それは道民が看取り(最後をどのように過ごすか)に淡泊ではないかということです。もちろん内地の人たちと比べてという意味ですが。内地の人たちは血縁関係が濃密です。家系図があるのは珍しいことではないそうです。その分、家族の看取りに関して熱心なように感じました。一方で、道民は看取りをあまり重視していないようにみえます。「もう年だもんねえ」、「十分長生きしたっしょ」、「痛くないようにだけお願いします」という言辞はよく聞かれます。この点を批判するつもりはまったくなく、逆に北海道らしさを感じてしまうのです。自然環境と闘わなければ生きてはいけない道民性を。
私が精神科を選んだのは、「人の生き死に」や「どのように死ぬか」は本質的な問題ではなく、「どう生きるか」が最も重要だと考えているからです。内地で「どのように死ぬか」について、家族会議で真剣に検討しているのをみて、どこか違和感を感じていたのは道産子だからなのかもしれないと今更思うようになりました。さらに私が精神科医になったのは、道民性が遠因だったのかもしれないとさえ最近考えるようになりました。まったくの空想である可能性は否定できませんが、仮説の積み重ねの上に物語ができるのだと考えているので、無意味な思考とまではいえないでしょう。
精神科医の仕事の一つは、第三者の立場から仮説を立てるお手伝いをし、その人なりの物語の創作に協力すること、そして患者さんがその物語にそれなりの真実性を感じられることだと思っています。エビデンスを性急に求められる時代だからこそ、仮説の積み重ねや人それぞれの物語が大事なのだと思います。